歩み

慶應義塾體育會端艇部 端艇部124年の歩み 年表

端艇部は明治22年(1889年)に創設されました。その年におこった出来事といえば、大日本帝国憲法発布、チャールズ・チャップリンの誕生、パリ万博の開催などと正に現代からすれば「歴史上」の時代でした。

明治22年(1889年)の出来事

2月11日-大日本帝国憲法・皇室典範公布。
春-パリ万国博覧会開催。エッフェル塔が建設される。
4月1日-市制施行、弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる
4月11日-甲武鉄道、新宿-八王子間が開通。
7月1日-東海道本線全通。
7月-東海道支線として米原~金ヶ崎(現敦賀港駅:つるがみなと)間開通。
7月8日-ウォールストリート・ジャーナルが創刊される。
7月14日-パリで第二インターナショナルが結成される。
9月23日-任天堂創立。
10月2日-伊勢神宮第56回内宮式年遷宮
10月5日-伊勢神宮第56回外宮式年遷宮

当初は大学には体育会も存在せず、もっぱら「倶楽部」として活動が行われていました。
レッドクラブ、大和クラブ、大学ボートクラブがそれぞれ別の団体として活動していましたが、明治32年(1899年)の体育会の誕生とともに「端艇部」としてまとめられました。

その当時の環境で今とは大きく異なるのは、漕ぐ場所でしょう。ボートは水上のスポーツですので、「川・湖・コース」などを必要とします。
今でこそ埼玉県戸田市に本格的なボートコースがありますが、その登場は東京オリンピック(昭和41年・1964年)の実に75年も後になります。

当初艇庫は東京都・芝浦にありました。当時の様子について部OBの谷井一作氏は次の様に述べています。(以下『三田漕艇倶楽部会報』昭和48年4月号より)

「芝浦の艇庫だが、今の国電・田町駅付近で、ちょっと新橋よりにあったように思う。
国鉄・東海道線の線路を越えるとすぐ海があった。その海に面して艇庫はあった。
…(中略)…
練習は品川の海へ出るか、お浜御殿(浜離宮)から新橋へかけての掘割を漕ぎまわるか、時には向島まで隅田川をさかのぼったものだ
芝浦の波打ち際で牡蠣をみつけて食ったこともあったし、両国橋のたもとには水泳場があったように思う。」

これを見ると、当時の東京の風景が今とまったく違ったものであったことが分かります。新橋のすぐそばが海だったり、東京湾に食べられる牡蠣があったり、隅田川で泳げたり。
どれも今の東京になれた私たちには、このことは想像もおよばないことです。このことは谷井氏もこう語っています。

「あれからもう70年が過ぎた。今日このあたり掘割はなくなって地下鉄や高速道路が走っているし、隅田川も品川の海も、臭く汚い東京湾と変わってしまった。悲しくも盛んなる経済大国の繁栄ぶりを見て、感一入である。」

当時の隅田川の透明さをあらわす例があります。財布を落とせば中からでたコインがあまりに鮮明に見たので、かんたんに拾ってこられたそうです。まさに滝廉太郎の「隅田川」そのものだったのでしょう。